◆◆◆◆◆◆ 第1章 ◆◆◆◆◆◆
深い森と湖に囲まれた平和で美しい小国ブラウラント。この国では、妖精やドラゴンがいまだ神話や伝説ではなく、密かに人間と共存していた。
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ビアンカは、暗い石造りの通路を、ろうそくの明かりを頼りに進んでいた。ローブのフードの下に見え隠れする磨かれた銅赤色の髪と翡翠色の瞳が、ろうそくの光を受けてきらきらと光る。 午後のこの時間は、世話をしようとついて回る乳母のばあやから逃れられる唯一の時間だ。本当なら部屋で『お昼寝』をしていることになっているのだが、元気いっぱいのビアンカには昼寝は苦痛以外の何物でもなかった。そうは言っても、さすがに番兵がいる正門から城の外に出るのは難しい。そこで、昔――ほんの
ニ年前の八歳の時のことだが――、かくれんぼをしていた時に見つけた隠し通路を使って城の外へ出るのだ。 通路は、城や城の側で働いている人々からは死角となる、森の側の古い井戸へと繋がっていた。明るい所まで辿りつき、必要のなくなったろうそくを吹き消して脇に置くと、慣れた様子で梯子につかまり井戸の上まで登った。周りをさっと見回して人のいないことを確かめると、素早く井戸から這い出て森へと走り出す。いつもの場所へ行くのだ。
森の中を右へ左へ獣道を道なりに進んでいくと、右手に大きな岩が見えてくる。その岩の側に生えている茂みの下を潜って進んでいくと、美しい小さな湖に出る。大きな木が湖へ足を入れるような形で根を伸ばし、身を乗り出すように枝葉を伸ばして気持ちの良い木陰を作っている。木の周りには城の庭に咲いているのとは違う野の花々が咲き乱れ、見る者の目を楽しませる。 ここがビアンカのお気に入りの場所だ。他には道がついていないので、静かで人目もなく、城の末の姫君という窮屈な立場から、普通のお転婆な女の子へと戻ることが出来る。
この場所を知っているのは、ビアンカの他には一人だけだ。そもそも、この場所を初めに見つけ、ビアンカに教えてくれたのは、そのコンラッドだった。 コンラッド・シュトライヒホルツは、遠い親戚に当たる三歳年上の少年だ。去年の夏、ビアンカの歳の離れた兄が結婚することになり、親戚一同がローザ城に集まった。その時に、二人は仲良くなった。だが、最初から仲が良かったわけではない。年が近いという理由で、急に年下の女の子の相手を押し付けられた反抗期のコンラッドと、張り合える身分の同じ年頃の子供に慣れていなかったビアンカは、何かというと反発しあい、一時期はかなり険悪でさえあった。ところが、ある時、何が原因だったのか今となってはわからないのだが、つかみあいの喧嘩をした後、突然に仲良くなり無二の親友になったのだった。 結婚式が終わり、シュトライヒホルツ家が自分達の領地に戻ることになった時、ビアンカは別れを惜しむあまり高熱を出した。末娘を心配したジークムント王とヘルミーネ王妃の提案により、コンラッドは騎士見習いとして城に残ることになった。剣や弓の稽古や騎士としての勉強もしているが、今のところ、ビアンカの遊び相手兼お守り役としての役割の方が大きい。
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ビアンカが湖に着くと、珍しいことに先客がいた。先客は、木の根元に白い塊になって見えた。恐る恐る近づいてみると、白い塊は、足に矢を放たれ怪我を負って倒れた白い小馬だった。否、違う。柔らかくカールした至極淡い金色のたてがみの間から尖った角が映えている。そして、何故か、茶色い布の袋が首に斜めにかけられていた。
「ユニコーンだわ!」 ビアンカの上げた声にユニコーンは頭をもたげ、荒く息を吐き、起き上がろうともがいた。 「だいじょうぶよ、何もしないわ。きずを見せてちょうだい」 ビアンカは声をかけながらそっと近づいていった。ユニコーンは本物の宝石のようなサファイア色の瞳でじっとビアンカを見た。やがて、害意はないと判断したのか大人しくなった。矢は左腿にしっかりと刺さっていたが、幸い骨には当たっていないようだ。 「矢をぬかないとだめだと思うわ。こんなときにコンラッドがいてくれたらいいのにね。コンラッドは、動物の傷の手当てがとくいなのよ」 ユニコーンはぴくっと耳を動かした。 「呼んだかい?」 ふいにビアンカの後ろから声がした。 「コンラッド!」 黒髪に黒い瞳のすらりとした少年が茂みから立ち上がり、ビアンカ達に向かって歩き出した。 「弓のおけいこをするって言っていなかった?」 「先生が急用で出かけてしまったから今日は休みになったんだ。へえ、ユニコーンか。はじめて見るなあ。」 そう言うとユニコーンの怪我を見ようと屈みこんだ。ユニコーンは、頭を起こすといきなりコンラッドに向かって角を突き出した。 「うわっ! 危ない!」 コンラッドは危ない所で角をよけ、横に転がった。 「だめよ。動いちゃ!」 ビアンカがユニコーンを制止する。コンラッドが角も足も届かない所に移動すると、ユニコーンは大人しくなった。 「ユニコーンが清らかな乙女にしか従わないというのは、本当だったんだな。……ビアンカが清らかな乙女っていうのが納得いかないけど。」 「何を言うのよ! どこからどう見ても、清らかな乙女でしょう! 火の魔法を使える美少女のお姫さまなんて、ちょっといないわ!」 「自分で言うか!」 二人のいつもの調子の言葉の応酬に、ユニコーンはじっと耳を澄ませていた。
「わたしが矢をぬかないとだめみたいね。ちょっとがまんしてね。」 ビアンカはコンラッドの指示でペチコートを破くと、ユニコーンの腿の付け根にきつく巻いた。しかめ面をしながら、何とか矢を引き抜いて投げ捨て、あふれ出てきた血を、ペチコートを更に破って押さえる。ユニコーンは、ビアンカのしていることがわかったのか、暴れもせずに痛みを堪えて、荒く息を吐き出した。ビアンカも緊張が溶けて肩で息をしている。
「よくやったな、さすがビアンカだ。」 ビアンカの肩を叩いて激励しようとした途端、コンラッドはビアンカが投げ捨てておいた矢につまずいた。コンラッドは慌てて手を振り回してバランスを取ろうとしたが、あっと思った時には既に遅く木の根元に足をとられ、ユニコーンのたてがみの上に手をついてしまった。ユニコーンはかっと目を見開いたが、びくりと体を震わすと、すぐに体をぐったりとさせた。
驚いて見守るビアンカとコンラッドの目の前で、ユニコーンの体に変化が現れ始めた。首は短く細くなり、しっかりした肩が現れ、ひづめは五本の指に別れ、尻尾は無くなり、真っ白だった毛並みが透き通るような白い肌に、顔は繊細な少年の顔立ちに、淡い金色のたてがみはそのまま淡い金色の髪の毛に、角は短くなって、ふんわりとカールした前髪に隠れて見えなくなった。つまり、すっかり人間の姿になったのだ。しかも茶色い袋以外は何も身につけていなかった。とっさに、コンラッドは自分の後ろにビアンカを押しやり、ユニコーンを見せないように隠した。
「全く何てことをしてくれたんだ!」 なかなかの美少年になったユニコーンの口から、怒りの言葉が飛び出した。 「男に触られたらユニコーンの姿に戻れないんだよ! いやしの力が使えなくなるし、村にも帰れなくなっちゃったじゃないか!」 「すまない。悪かった。……とりあえず、傷の手当てを先にしよう。」 コンラッドが素直に謝ると、裸だった少年はなんとか気を落ち着かせ、肩から斜めにかけた袋から慌てて服を取り出して上着を羽織った。コンラッドは無言で、先ほど止血に使ったビアンカのペチコートを包帯代わりにして、少年の足に巻いていった。 ビアンカは二人の少年の間の緊張感にはお構いなく、 「すてき! ヒトに変身できるのね! それともヒトがユニコーンに変身できるのかしら?」 と、弾むような声で言った。
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