3月.桜の舞い散る坂道 |
※※※※※※※※※※※※※※ ホテルへの帰り道、タクシーの後部座席で揺られながら、リッチことリチャード・リッチモンド三世は、先ほどの商談での要点を口述しながら、隣に座る秘書を眺めた。 マリ・エリオットは、父の代からの秘書ミセス・シモンズが定年退職した後、度重なる秘書の交代の末、半年前にやっと見つけた有能な秘書だ。黒髪を細い首の後ろできつくシニヨンにまとめ、銀縁の小さな眼鏡をかけて、体の線が見えないかっちりとした質の良いスーツを着た姿は、ドラマに出てくるような典型的なオールドミスの秘書に見える。 だが、秘書のお手本といったお堅いスーツの下には、繊細な女らしい体が隠されていることをリッチは知っていた。先月、ビジネスディナーでレストランを訪れた際にダンスを踊ったからだ。クリーム色のシルクのドレスに身を包んだマリは、眼鏡をかけておらず、いつもより十歳は若く見えた。近眼であるのは確かなようだが、眼鏡は童顔を隠す小道具でもあるらしい。マリはダンスの曲に合わせて体をゆったりと揺らしながら、漆黒の大きな瞳でリッチを見上げた。 リッチはダンスの間中、何故、いつも堅苦しい格好をしているのか聞いてみたらどう答えるだろうか、ドレスの下に感じる豊かな胸や細い腰をもっと近くに抱き寄せたらどんな風に反応するだろうかなどと、埒もない空想を止めることが出来なかった。 結局、リッチは取引先の夫妻の前でマリの機嫌を損ねる気にならず、また、彼自身、不意に沸いたその感情に対処する時間が欲しかったので、どれも実行には移さなかった。 その後、リッチは会社で冷静を装いつつも、気がつくといつもマリの姿を追っていた。採用時にした面接によると、マリは会社から車で三十分ほどの郊外の家に祖父母と三人で暮らしているはずだ。両親を子供の頃に亡くし、祖父母に古風に育てられたようだ。残業を頼むとすぐに快く引き受けることから、付き合っている男がいる気配はない。 社内で一番仲が良いのは、リッチの妹のサニーだろう。サニーがマリの部屋まで迎えに来て、昼食時間に一緒に出かけているからだ。自分に向けられたことはない屈託のない笑顔を、サニーに対してはよく見せる。いつか自分にもこの笑顔を向けてくれるだろうか……と、リッチは妹に対して羨望を覚えた。 そして、マリは一部の男性社員には結構人気があり、数人からデートの誘いがかかっているのに断っているということも、二人の会話から知った。 だからこそ、留守中に何かあったらと、ついマリを日本まで連れて来てしまったのだ。マリの祖母が日本人で、日常会話なら楽々こなせるというのが大きな口実となった。 実のところ、今回の日本出張はリッチ一人だけで十分だった。取引先の担当者であるミスター・サトウは、海外での赴任経験があり、英語が堪能であるということが、これまでの打ち合わせからリッチにはわかっていた。先ほどの商談も全て英語で行われ、マリの日本語は簡単な挨拶にしか使われなかった。このことにマリが不審を感じないことを、リッチは密かに願っていた。 ※※※ 「ミスター・リッチモンド? 社長……? どうかなさいましたか?」 マリがタクシーの運転手に希望を伝えると、運転手は「オッケー! オッケー!」と頷いて、交差点を左に折れた。車はそのまま、正面に見える小高い山へと続く道を進んだ。離れた所から見たその山は、淡い赤味がかった色をしていたので、リッチはそれを枯れ木だと思っていたのだが、近づいてみるとその淡い赤味は桜の色だった。坂道に沿って植えられた桜は、咲き開いているものもあるが、まだ硬いつぼみのものもある。 タクシーの運転手が「今年は桜の開花が遅く、満開はもう少し先だ」と話していると、マリが言った。満開の時期の休日には、山の頂上は『花見』客で賑わうのだそうだ。『花見』とは桜を見るためのピクニックのようなものだとマリは付け足した。 突然、道が広くなり、タクシーは桜に囲まれた広場に出た。運転手は広場の端に車を停めると、ドアを開けてマリに何かを告げた。 傾斜の急な階段は、見事な桜の枝で覆われていた。人があまり通らないためか、ここ最近は剪定が行われていないらしい。自然で美しい光景なのだが、背の高いリッチの頭すれすれの位置に枝があり、リッチは何度か身を屈めて桜の枝の下を潜ることになった。マリはハイヒールにも関わらず、リッチの後ろや前を軽い足取りで踊るように階段を登っていった。 後少しで階段が終わるという時だった。マリですら通れないような特別低く垂れた枝が一本、目の前に現れた。 リッチは紳士らしく枝を上に押し上げてマリを先に通した。自分も続いて通ろうとしたのだが、体をずらした途端に手から枝が外れ、反動で勢いのついた枝がリッチの頭に襲い掛かることになった。 リッチの周りに花びらが舞う。額をしたたか打ってふらついたリッチは、手摺を慌てて掴み、階段から転がり落ちるのを防いだ。 「リッチ! 大丈夫ですか!!」 そして、ふと気付き目を見開いた。 リッチはさりげなくマリの手を取ると、桜あふれる頂上へと踏み出した。 ※※※ Fin ※※※ |
by おとなし おっと,Greenery Park 2005/03/27発表,2006/05/15修正
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